巨人やアメリカ大リーグでも活躍した「松井秀喜さん」が、第100回の記念大会を迎えた「甲子園」のマウンドに登場。
「レジェンド始球式」を行いました。
結果はまさかの「ワンバウンド投球」となり、本人は「苦笑い」を浮かべていましたが、満員の観客を大いに喜ばせてくれました。
そんな松井さんの名前を、一躍全国に広めたのは、やっぱり「甲子園」。
高校3年生、松井さんにとって「最後の夏」に起こったあの有名過ぎる出来事ですね!
松井秀喜の甲子園敬遠事件とは?
松井さんの高校時代、甲子園での思い出を語る上で欠かせないのが、あの「5打席連続敬遠事件」。石川県の「星稜高校」の選手として、「高校生活最後」の大会に挑んでいた松井さん。
その体つきからして、既に他の高校生たちとは違っていましたね!
まさに「怪物ゴジラ」。
そんな松井さん率いる星稜高校は、「優勝候補」にも上げられていましたが、2回戦で当たった「明徳義塾高校」に「惜敗」することになります。
この試合で松井さんには、「5回」打席が回ってきましたが、「1度」もバットを振ることはありませんでした。
明徳義塾は、徹底して松井さんとの勝負を避け、ランナーがいる、いないに関わらず、「ストライクを一球も投げること無く」、全ての打席で「敬遠策」を取ります。
もちろん選手たちが自発的に行ったのではなく、監督の指示、明徳義塾が「打倒星稜」のために取った作戦だったのですが、これが「大きな問題」となりました。
松井さんの豪快な打撃を見ることを楽しみにして集まった観客たちは、試合の途中から「騒然」。
結果、星稜が敗退したことで、マスコミは、この事をより大きく取り上げ、完全に明徳義塾は「ヒール役」となってしまいます。
当の松井さんは、決して相手を責めることはなく、「あくまで作戦の一つ」だったと自分を納得させ、涙を浮かべながら甲子園を去っていきました。
本当は相当「やり切れない思い」があったでしょうね。
しかし結果としてこの出来事が、世間により大きなインパクトを与え、「松井秀喜」という名前は、一気に全国に広がっていくことになります。
また、当時星稜の監督を務めていた松井さんの恩師、「山下智茂さん(現星稜高校名誉監督)」は、あの「5打席連続敬遠」があったことで、松井さんは後に、「人間的に大きく成長した」とも語っています。
数多くの名場面が生まれてきた甲子園の中でも、特に「印象的なシーン」の1つですね。
松井秀喜の高校時代の成績で通算本塁打は?その後はジャパンでも?
「5打席連続敬遠」という事件の印象が強い松井さんの高校時代ですが、「通算成績的」には、どのような「数字」を残していたのでしょうか?
松井さんが3年生の時に迎えた「春の選抜大会」の時から、甲子園の「ラッキーゾーン」は撤去されています。
しかし松井さんのパワーの前にはあまり関係なく、その選抜大会では、「2打席連続ホームラン」や、「2試合連続ホームラン」を記録。
この時点で既に、プロ野球のドラフト会議で「上位指名」されることは間違いないだろうと言われていました。
「ゴジラ」というニックネームで呼ばれ出したのも、この頃からでしたね。
松井さんは高校時代、通算で「60本」の本塁打を放っています。
これは当時、あの清原和博さんの持つ「64本」という記録に次ぐ数字でした。
甲子園には、春夏を合わせて「4回」出場した松井さん。
選抜と選手権、それぞれの「通算成績」がこちらです。
打率 | 本塁打 | 打点 | |
春(選抜) | .600 | 3 | 9 |
夏(選手権) | .227 | 1 | 6 |
通算 | .344 | 4 | 15 |
最後の夏の甲子園の後に行われた交際大会、「日米韓3国親善高校野球大会」にも、「日本代表メンバー」の一員として参加しています。
この頃から松井さんの存在は、アメリカのスカウトの中でも注目を集めていたそうです。
今とは違い、まだメジャーリーグという舞台が現実的なものでは無かったのに、こんなに早い時期から注目されていたことからも、松井さんが高校生としては「並外れた選手」だったことが分かります。
というわけで今回は「松井秀喜の高校時代の成績は?甲子園の敬遠事件と通算本塁打も!」について見てきました。
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