今回は、言わずとしれた「ジャニーズ事務所」の「社長」である「ジャニー喜多川さん」について、色々と調べていきます!
これまでに「日本」で誕生した、多くの「男性アイドルたち」の産みの親である「ジャニーさん」。
その特筆するべき「才能」は「ダイヤの原石」である「少年の発掘」です。
何でも、ジャニーさんは、まだ幼い「男の子」の「写真」を見ただけで、その子が将来「どんな大人の顔に成長していくのかが分かってしまう」と言います。
御年「86歳」にして、未だに「現役」。
生涯「エンターティメント」の世界に携わり続けるという「意欲」を見せるジャニーさん。
「2020年」に開催される「東京オリンピック」にも、何らかの形で携わっていきたいと考えているようですね~。
ジャニー喜多川の生い立ちや若い頃は何を?
「ジャニー喜多川のプロフィールは?」
- 本名:ジョン・ヒロム・キタガワ(喜多川擴)
- 生年月日:1931年10月23日
- 年齢:86歳
- 出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市
しかし「経営」に関しては、全く興味がなく(というか出来ないのかもしれません^^;)、主な仕事は「新人発掘」に「Jrの育成」や「舞台などの演出」。
本丸「ジャニーズ事務所」に加え、たくさんの「子会社」の「社長」も兼任しています。
- ジェイ・ドリーム
- ジャニーズ出版
- ヤング・コミュニケーション
- つづきスタジオ
基本的に「所属タレントたち」のことは「You」と呼び、固っ苦しいのが嫌いだからという理由で、自身への「敬語」も「禁止」させているのは有名な話ですね^^;
その他にも、数々の「ジャニー伝説」が、所属タレントたちから語られることがあります。
「ジャニー喜多川の生い立ちはや若い頃は何を?」
稀代のプロデューサー「ジャニーさん」。その「生い立ち」とは、どんなものだったのでしょうか?
ジャニーさんが生まれたのは「1931年」場所は「アメリカ・ロサンゼルス」でした。
日本へやって来たのは「1933年」。
この頃は、一家で「大阪市」で生活を送っていたそうです。
しかし、間もなくして「母親」を亡くしてしまったジャニーさん。
その後「太平洋戦争」が勃発すると、子供たちだけで「和歌山県那智勝浦町」へ「疎開」しています。
戦争が終わると、1947年に、また子供たちだけで「ロサンゼルス」へと戻り、現地の「高校」に進学。
ジャニーさん、高校生時代には「アーニー・パイル・シアター」で「アルバイト」も経験したそうです。
高校を卒業したジャニーさんは「姉」である「メリー喜多川さん」と同じ大学「ロサンゼルス・シティー・カレッジ」に進学。
ちょうどこの頃になるのでしょうか?
1950年、ジャニーさんは、あの「美空ひばりさん」が「ロサンゼルス」で行った公演の会場の「ステージマネージメント」を担当。
これをキッカケに、ジャニーさんは「美空さん」と親しくなり「交流」が始まります。
結果的に、ジャニーさんが「エンターティメント」の世界に「魅了」されるようになったのは「美空さんのステージ」を、一緒に作り上げた経験からだったんですね!
「日本の芸能界」に興味を持ち始めたジャニーさんは「1952年」に「再来日」。
「アメリカ大使館」で「陸軍犯罪捜査局」の「情報員(通訳の助手)」として働き始めます。
そして「朝鮮戦争」による「戦災孤児」たちに「英語」を教えるため、日本に居ながら「約11ヶ月」という短期間で「朝鮮語」をマスターし、韓国側の「板門店」に向かったということ。
また、ジャニーさんはアメリカ大使館で働きながら「上智大学国際部(現在は国際教養学部)」に進学し、同大学を「卒業」しています。
ちなみに、この頃(1955年頃)「バンド」を組み「日本の芸能界」へも「参入」したそうです。
ジャニー喜多川は若い頃は何を?母親と父親はハーフ?
「ジャニー喜多川は若い頃は何を?」
日本での大学生時代に、まさかの「バンド活動」をしていたジャニーさん。その後「1960年初頭」になると、当時住んでいた「東京都渋谷区代々木」の「占領アメリカ軍宿舎」である「ワシントンハイツ」で「近所の少年たち」で構成された野球チームの「コーチ」を務めます。
「野球」に「少年」と、ジャニーさんにとっては「大好物」なものが揃いましたね。
そのチーム名こそが「ジャニーズ」。
これは自身の「ジャニー」という名前から来ているのでしょう。
この野球チーム「ジャニーズ」ですが、何とあの「力道山」や「プロの球団」から「支援」されていたそうで、応援団には女優の「松島トモ子さん」も居たと言います。
何やら、普通の少年野球チームでは無かったようですね…。
そんなある日、ジャニーさんは、このチームのメンバーのうち「4人」を選抜し連れて「映画館」へ。
映画館では「ウエスト・サイド・ストーリー」が上映されていました。
この映画を見て「感動」した「ジャニーさん一行」。
ジャニーさんは「エンターテインメント事業」に「進出」することを、ここで「決意」します。
そして「1962年」自分の野球チームのメンバーだった「4人」で結成されたグループこそ、ジャニーさんにとって「最初の作品」である「初代ジャニーズ」となります。
「ウエスト・サイド・ストーリー」を見て、少年たちと感動し起業って、ジャニーさんは「ピュアな心」を持っていたんですね~。
キラキラした目をしながら「少年たちと映画を見ているジャニーさん」を想像したら、何か笑えてきました^^;
「ジャニー喜多川の父親や母親は?」
最後にジャニーさんの「両親」についても調べていきます。というか、ジャニーさんって、そもそも「日本人」なんでしょうか?
先程「母親」に関しては、ジャニーさんが、まだ小さかった頃に「亡くなっている」と触れました。
では、ジャニーさんの「父親」はというと、日本の仏教「高野山真言宗」の「米国別院の僧侶」で「喜多川諦道さん」という方。
更に「父親」は、1946年~1948年まで「プロ野球」の「球団」である「ゴールドスター」の「マネージャー」も務めていたそうです。
これで、ジャニーさんがコーチをしていた「少年野球チーム」が「プロの球団」との「繋がり」があった理由が分かりました!
そして、ジャニーさんの「両親」は、父、母ともに「日本人」だということ。
つまり、ジャニーさんは「ハーフ」とかではなく「純粋な日本人」だったんですね!
それにしても、まさか、ジャニーさんが「僧侶の子」だったとは^^;
かなり意外です。
という訳で今回は「ジャニー喜多川の生い立ちは?若い頃は何を?母親と父親はハーフ?」について見てきました。
最後までご覧になって下さって、どうもありがとうございます!