格闘技界の「カリスマ」の1人「山本KID徳郁さん」が「18日」に亡くなっていたことが分かりました。
KIDさんは、まだ「41歳」。
先月の「26日」に「がん」で「闘病中」であることを明かしていたKIDさん。
「再婚相手」となる「ゆいさん」との間に出来た「子供たち」も、まだ幼なく、その時は「また必ず元気になって帰ってくる」と宣言していました。
それから僅か「1ヶ月足らず」で届いた訃報。
第一報を目にした時は、あまりにもショックで信じられませんでした。
KIDさんほどの「強靭な精神力」をもってしても敵わない「がん」。
本当に「恐ろしい病気」です。
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山本KID徳郁がオリンピックに出場出来なかった理由は?
「山本KID徳郁がシドニーオリンピックに出場出来なかった理由は?」
「総合格闘家」として活躍していたKIDさん。その「家族」を見ていくと「父親」の「山本郁栄さん」は、1972年「ミュンヘンオリンピック」の「レスリング日本代表選手」。
そして姉の「山本美憂さん」妹の「山本聖子さん」も、レスリングの世界大会で「優勝」を経験するなど、まさに「レスリング一家」で育っています。
「KID」という「愛称」ですが、これは文字通り「子供」を意味し、KIDさんが中学生だった頃「体格が小柄だった」ために付けられたそうです。
家族からの影響もあり「5歳」から「レスリング」を始めたKIDさん。
人生の中で「自分よりも小さい相手と戦ったことは無かった」と言います。
「163cm」「64kg」と、確かに小柄なKIDさん。
しかし、一度リングに上がれば、そんな「体格の差」は全く感じさせず「闘志剥き出しのファイティングスタイル」は、見ているものを熱くさせました。
あの「魔娑斗選手」と対戦し「ダウン」を奪った時なんて、思わず声が出てしまったのを覚えています。
「プロの格闘家」としてのイメージが強いKIDさん。
実は過去に、レスリング選手として「オリンピック」を目指したこともあります。
KIDさんは、まだ学生だった「1999年9月14日」に「母親」である「山本憲子さん」を亡くしています。
憲子さんも「レスリング経験者」で「審判員」の資格も持っている方でした。
最愛の母を亡くし、傷心のKIDさんですが、その悲報の「3日後」には「レスリング」の「全日本大学選手権」で「優勝」を
果たしています。
そして迎えた、同年11月の「全日本選手権」。
この大会は「シドニーオリンピック」への「出場切符」を賭けた戦いでした。
「レスリングの学生王者」となったKIDさんの次の目標は「全日本選手権制覇→オリンピック出場」。
しかしKIDさんは「決勝戦」で同大会の前年度チャンピオンでもあった「関川博紀さん」に敗れ、惜しくも「準優勝」に終わり「日本代表切符」を逃します。
その後「プロ転向」を決意。
以降は「プロ格闘家」として、間違いなく「格闘技ブーム」を作った立役者の1人として活躍を続けます。
「山本KID徳郁が北京オリンピックに出場出来なかった理由は?」
KIDさんが、再び「オリンピック」を目指すことを宣言したのが「2006年6月22日」のことでした。この時KIDさんは「約2年後」に迫っていた「北京オリンピック」に「レスリング」の選手として出場することを目指すと発表。
プロの格闘家として、順調な歩みを進めていたKIDさんが、なぜこのタイミングで「アマチュアの祭典」である「オリンピック」を目指したのか?
当時は、かなり「大きな話題」になりました。
KIDさんは以前から「アマチュアでオリンピックに行くようなレスリング選手は、申し訳ないけど別の生き物。違う人間なんです。凄い尊敬している」と、語っていました。
やはり、身近で「父親」や「姉妹たち」の頑張りを見ていたからでしょうね。
「北京オリンピック」への出場を目指したKIDさん。
その挑戦を表明した後は、自身の母校でもある「山梨学院大学」のレスリング部の練習に志願し参加。
プロとして戦ってきたKIDさんをして「こんな練習キツかったっけ?」と、弱音を吐くこともあったそうです。
レスリングの選手としては「約7年間」のブランクがありましたからね。
この頃、KIDさんが最も苦しんだのが「レスリング」と「総合格闘技」での「構え方の違い」でした。
- レスリング:「腰を低く落とした姿勢が基本」(試合中ずっと続ける)
- 総合格闘技:「直立に近い姿勢」(打撃があるため)
この基本的なレスリングのスタイルを、KIDさんの体は「約7年間」のブランクのため「忘れて」いました。
レスリングの練習を再開したKIDさんは「学生たち(レギュラークラスの)」を相手に、ポイントを取ったり、取られたりと、思うような戦いが出来なくなっていました。
KIDさん本人も、相当焦ったでしょう。
そんな中迎えた、2007年1月28日の「天皇杯全日本レスリング選手権」。
「北京オリンピック」出場を賭けた大会です。
この大会で、KIDさんは、1回戦で順当に勝利。
次の「2回戦」で対戦したのは「井上謙二さん」。
井上さんは「アテネオリンピック」で「銅メダル」を獲得していた選手です。
結果は、試合開始僅か「16秒」での「フォール負け(巻投げによる)」。
KIDさんは、この試合で「右肘後方脱臼・内側側副靭帯損傷」という「怪我」を負ってしまいます。
全治は「約4ヶ月」。
KIDさんの「北京オリンピック」への挑戦は、事実上、ここで「終わり」となりました。
専門家は、KIDさんの「敗因」と「怪我をしてしまった理由」について「レスリングとは違う『総合格闘技』の硬い筋肉が出来上がっていたため、巻投げをされると脱臼しやすい状態になっていたのではないか?」と分析しています。
また、KIDさんと言えば「全身に施されたタトゥー」もトレードマーク。
しかし、この大会でKIDさんは「タトゥー」を隠すために、腕に「テーピング」を巻いていました。
もちろん、国際大会において「タトゥー」が禁止されている訳ではありませんが、KIDさんは、日本人が持つ「タトゥー」への偏見を考慮し「自主的」にテーピングを巻き「タトゥーが目立たなくなる」ようにしていました。
この「テーピング」が、お互いの体を掴み合うレスリングの試合では「取っ掛かり」になってしまったそうです。
つまり、普通の肌だったら「汗で滑るはずの所」が、テーピングによって「滑り止め」になっていたんですね。
結果「相手が技を仕掛けやすい状態」になっていました。
もし、KIDさんが「テーピング」をしていなかったら、試合の展開は変わっていたかもしれません。
しかしKIDさんは、一切「言い訳」はしませんでした。
山本KID徳郁はオリンピックになぜ挑戦?
次に、そもそも何故、KIDさんは「北京オリンピック」を目指したのでしょうか?当時「プロ格闘家」として活躍していたKIDさんは、試合を行えば「莫大なファイトマネー」を手にしていました。
オリンピックを目指す期間は、プロとしての活動は「ストップ」しますので、お金の面だけで考えれば、KIDさんには「何の徳」も無いことになります。
それでもKIDさんが「北京オリンピック」を目指したのは、やはり「父親」である「郁栄さん」への想いからだったのではないでしょうか?
先程も触れたとおり、郁栄さんは「レスリング男子日本代表選手」として「ミュンヘンオリンピック」に出場。
郁栄さんの階級は「グレコローマン57kg」という、世界的に「最も標準的な体格の階級」。
当時、グレコローマン最多となる「30選手」が出場していた「最激戦区」の階級でした。
そんな階級にあっても、郁栄さんは「メダルの有力候補」。
しかし、このオリンピックでは、後に「五輪最大の悲劇」とも言われている「ミュンヘンオリンピック事件」が起こっています。
その事件の影響は、レスリングの試合にも派生し「波乱の試合展開」が続出。
郁栄さんも、それに巻き込まれる形で「不可解な判定」を受け「判定負け」を喫しています。
最終的な郁栄さんの結果は「7位」というもの。
その「不可解な判定」についても少し見ていきましょう。
「ミュンヘンオリンピック」では、事件を受け、政治的な意向により「東側諸国」に「有利な判定」が下されていると噂が立ちます。
実際に、試合を観ていた観衆たちも、判定に対しては「疑問の声」を上げていたそうです。
そして、郁栄さんと「5回戦」で当たり「疑惑の判定勝ち」を収めた「旧ソ連」の「カザロフ選手」が、そのまま勝ち上がり「金メダル」を獲得したことから、郁栄さんは「幻の金メダル」とも称されたそうです。
そのミュンヘンオリンピックから「数年後」に誕生したのが、郁栄さんの娘、息子たち。
郁栄さんの子供たちは、家にあった「ミュンヘンオリンピックで郁栄さんが敗れた時の新聞記事」を見て「いつの日か、父親の果たせなかった(オリンピックでの)金メダルを獲る」と誓いあったそうです。
KIDさんは後に、この時の事を振り返り「親父が悔し泣きしてる写真を見て、ガキのくせに体中の血がカーっとなった」と語っています。
「オリンピックでの借りは、オリンピックでしか返せない」
プロ格闘家として活躍しながらも、KIDさんの胸の中には「この様な想い」が常にあったのでしょうね。
何とも「山本家の強い絆」を感じさせるエピソードです。
という訳で今回は「山本KID徳郁がオリンピックに出場出来なかった理由やなぜ挑戦?」について見てきました。
最後になりましたが「山本KID徳郁さんのご冥福をお祈り致します」。